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一 戦闘の父島【初期】
  1 戦いの始まり


(「父島『僕の軍隊時代』」七十一ページ八行目つづき)

翌六月十六日の夕。敵の上陸用船艇が小港湾に侵入してきたとの急報が司令部に入った。

(遂に始まるのか。だが、早すぎる)

 もう少し時間が欲しかった。島は新規の部隊でごった返していて、まだ陣地も決まらず

大村の小学校の校庭に駐屯している部隊もいた。半ば諦めにも似た心境になった。

 僕の師団通信隊も例外ではなかった。父島の各部隊から通信関係の兵を寄せ集めて

結成してから間もない時期で、僕が全員を完全に掌握しているとは言い難い状態だった。

僕は司令部横の丘の斜面に立ち、下士官を招集して状況を説明し、至急兵達に手榴弾を配るように命じた。

通信隊には銃器はなかったのだ。

下士官を去らせた後一人丘の上に立ち、胸の内を噛み締めるようにして夕焼けを見つめた。

最後の線が水平線上に一筋となる、その黒々とした海の色が、今もはっきりと浮かんでくる。

しかし間もなくこれは誤報だと判った。船舶工兵が大発(大型ボート)を空爆から守るため

夜間に小港湾に移動したのを、小港防備の歩兵隊が米軍の船艇と間違えたのだ。

歩兵隊の部隊長が司令室に呼ばれ、西川参謀からガンガン怒鳴られているのを遠くから

眺めながら「まずは良かった」とホッとした。

今回の米軍の来襲は、……(本文へ)


3 米軍の進駐

(「父島『僕の軍隊時代』」本文105ページつづき)

進駐後、今は米軍の連絡所となった旧司令部より各部隊に、兵器の引き渡し、弾薬の海中投棄、

そして米軍基地の整備の為の使役が命令された。堀江参謀は米軍との交渉の主役となった。

 僕も二度ばかり部下を連れて米軍基地内の使役の指揮に出た。

 使役は大体、基地内の地均し、焼却場と便所の穴掘りなどの簡単な作業で、指示するのはあちらの

下士官だった。彼らは若い陽気な連中で、よく煙草を勧めてくれた。

それを「ノースモーキング」と断るのも気の毒なようだった。

 米軍はトラブルを避けるためだろうか、基地外に自由に出て歩くことはなかった。

そのような中でも、一度僕が小曲の辺りを一人で歩いていたとき、珍しく二人連れの米兵に出会った。

彼らは僕の傍らに寄ってきて、僕の懐中時計の紐に手を掛け、「プレゼント、プレゼント」と

しきりにそれを欲しがる素振りを見せた。この時計は通信の標準時計で大事な記念の品である。

僕が強く「ノー」と断ると、彼らは残念そうに首を振って離れて行った。


4 帰還迄の日々

 もう食料を備蓄する必要がなくなったことから、十分な配給がもらえるようになった。

米軍の使役に行った兵がせしめてくるチューインガムなどもあって、食に対する苦情はなくなった。

 帰還も始まり、第一陣、第二陣と部隊の帰還が始まった。

 今後の行方が解らず、アメリカに連れて行かれるとか、去勢される等の一時の流言も今は止み、

ただ帰還の夢を語り合う時となった。

兵等は天幕で大きなリュックサックを作っていた。毛布で洋服まがいのものまで作る器用な者もいた。

皆、それぞれ袋にそれらを詰めたり出したりして楽しんでいた。

工兵隊には手の器用な者が多く、桑の根で小箱や箸箱まで作っていた。

他の隊の注文まで受けており、僕も一つ箸箱を頼んだ。

 演芸が流行り始めた。あちこちで催しが行われた。何しろ一万七千人もの各界の者が集まっていたのだから、

脚本家も俳優も、音楽家も、そして道具方まで揃うわけだ。

 僕も一度兵を率いて、何処かの広場に設けられた演芸会場に行った。喜劇だった。

面白かった。何処でどう揃えたのか、女形の綺麗な着物まで揃っていた。

何年ぶりか、みんなで腹の底から笑った。

不思議なもので、今でもその出し物の景が浮かんでくるし、

その時歌われた唄を覚えている。

隊の中でダンスの会、謡曲の会等が始まった。僕も謡曲の会に入り、初めて“高砂や……”等と唸ってみた。


十月の何日だったか。史上に残る大きな台風が父島を直撃した。

台風の名前は“キティ”だったか“ジェーン”だったか、米国女性の名で呼ばれていた。

通信隊はその時、小川となった溝を挟んでなだらかな傾斜地に集合していた。

もう壕に籠もる必要はなく、本部は天幕を張っただけの簡単な造りとなっていた。

山の奥にいた歩兵部隊も、帰還までのこととて、同じように近所に天幕を張り、

この辺は天幕部落の観を呈していた。

その晩は凄い雨と風だった。将校室は木造の掘っ立て小屋だが、

幸い岩陰になっていて風の直撃から免れていた。

僕らは何もすることがないので、ランプの下で隊長や軍医らと麻雀を囲んでいた。

と、ドンドンと誰かが戸を叩く。見ると炊事の下士官で、川縁の炊事倉庫が流されそうだという。

早速雨具をまとい、長靴で表に出た。絶え間ない雷光で道がはっきり浮かぶ。

驚いたことに、目の前の川が溢れて激流となり、橋を越しそうになっていた。

この川は幅三メートルばかりでいつもは水が殆ど無く、一間ばかりの谷底の所々

にちょっぴりと溜まっているだけだった。その為倉庫もこの谷のすぐ上に何本か丸太を渡して

半分ほど川にせり出すようにして建ててあった。

非常呼集! 皆で米や乾パンなどを手送りで持ち出したとき、小屋は奔流に巻き込まれて崩れ去った。

小屋に戻ってうとうとしていると、また戸が激しく叩かれ、外から大声で叫んでいる。

宿舎の天幕が土流に巻き込まれたという。外は白々と明けかかり、雨も風も治まりかかっていた。

一面深い泥海と化した中をやっと辿り着くと、天幕が張ってあった辺りがぐっさり削り取られていた。

泥土が流れて下の川を堰き止め、水が辺り一面に溢れて手のつけようもない。

流された幕舎は一張りらしい。兵を高台に集めて点呼する。「さっきからTがいない」と

同室の兵が探し回っていたが、やはり一名足りない。補充兵のTだった。

Tの捜索は案外手間取った。鉄砲水というのだろうか。泥土が深く、流された岩石に倒木が重なり、

鋤やスコップの人海戦術では埒があかない。

隣に宿営していた部隊では将校以下、数名が行方不明という。

我々の隊の毎日の仕事はTの捜索一本に絞られた。Tは土が乾きだしても一向に見つからない。

“彼の遺体が見つからないと帰還できないのでは”とも囁かれた。

そして約一週間後、遺体は発見された。隊のすぐ傍の泥土の中からだったが、岩や流木の間から

銀蠅が群がり立つのを見て寄っていった兵が見つけたのだった。

隣の部隊の将校の遺体もこの頃見つかった。寝ていたそのままの状態だったらしい。

終戦となり、折角助かった命がこのような形で失われてしまうのは、やりきれない思いだった。

大量の食料などが流され、海に漂った。米艦の周りにも流れていったらしく、

米側も事を憂慮し早速救急医療品、食料などの差し入れを送ってくれた。